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2020.11.10

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【世界選手権おもしろ史19前編】「日本が優勝できなくなった原因は?荻村の考察を紹介」 (2009年5月号から)

  • 長谷川と共に”日本の3強”伊藤繁雄(右)と河野満

  • 小野誠二(奥)対郭躍華の'79年決勝。このあと日本は無冠へ後退

  • 女子団体優勝の日本。左から、小和田敏子、大関行江、田中拓監督、大場恵美子、今野安子

昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。


 

2009年5月号世界選手権横浜大会開催記念号から、故・藤井基男氏・著の「世界選手権おもしろ史」をお届けします!
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略

 

QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史

 

1970年代(昭和46~55年)

70年代に入り、日本の優勝が「毎回1種目」に後退し、欧州男子と韓国・北朝鮮の女子が躍進。そして「第四の危機」とは?

なぜ「1種目優勝」に後退?その中で光る河野・小野の優勝

――1970年代に入って、日本の優勝は「毎回1種目」に後退したね。特に男子団体の優勝が、まったくなくなった。

……そのとおりで、70年代の日本の優勝を挙げると、下記のとおりである。

 

1971年:女子団体(小和田/大関・他)

1973年:女子複 浜田美穂/アレキサンドル(ルーマニア)

1975年:女子複 高橋省子/アレキサンドル(ルーマニア)

1977年:男子単 河野満

1979年:男子単 小野誠治

 

――なぜ、日本の成績が後退したの?

……荻村伊智朗説では、67・69年の中国不参加の時代に日本の努力目標が低下し、練習や体力トレーニングが量・質ともに落ちたから、という。これを裏付けるかもしれない一つのデータとして、ダブルスで50年代は7個、60年代は8個の金メダルをとり、「ダブルスは日本のお家芸」(得意中の得意)と言われたが、70年代では日本選手同士が組んだペアで、優勝ゼロとなっている。ダブルスではフットワークが大切だが、フットワークの練習が50年代、60年代に比べ減ってきていることをうかがわせる。

――フットワークのような苦しい練習が減った、というわけだね。

……強敵の数がふえたことも、原因に挙げられる。なんらかの種目で優勝した国の数を、60年代と比較すると、次のようになる。

 

  • 60年代

・男子

中国、日本、スウェーデン

・女子

中国、日本、ソ連、ルーマニア

  • 70年代

・男子

中国、日本、スウェーデン、ハンガリー、ユーゴ、フランス

・女子

中国、日本、韓国、北朝鮮、ルーマニア

 

 優勝争いに加わる国が、60年代の7カ国から70年代には約2倍の11カ国にふえている。

――それだけ勝つのが難しくなったわけだね。

……そういう中で、河野と小野の優勝はすばらしい。

 河野は67年大会で長谷川信彦と決勝を戦っている。それから10年後の30歳で世界チャンピオンとなった。その間に、速攻一本槍で取りこぼしの多い卓球からショートやドライブをまぜる攻守のバランスのみごとな卓球に改造して栄冠を手にした。

 小野は、79年ピョンヤン大会で団体戦に6敗したが、22歳の伸びざかり。加えて、猛練習と一日10キロを走りつづけた成果が出て、負けながら強くなり、大会後半の男子シングルスでは中国選手を4人も倒して、日本男子7人目の世界チャンピオンとなった。決勝の郭躍華戦では、ショートがよく止まり、“カミソリ”といわれた強烈なスマッシュもよく決まった。特に低いボールに対するスマッシュが。

 

欧州男子と韓国・北朝鮮の女子が躍進、第四の危機については、11/13配信の後編で!

 


藤井基男(卓球史研究家)

1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。

本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去