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2020.12.01

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【世界選手権おもしろ史22】「ラバーの色は“赤と黒”に限定。その影響で1回戦負けした最強選手とは?」 (2009年5月号から)

昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。


 

2009年5月号世界選手権横浜大会開催記念号から、故・藤井基男氏・著の「世界選手権おもしろ史」をお届けします!
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略

 

QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史

 

第38回大会1985(昭和60)年3月28日-4月7日 イエテボリ(スウェーデン)

ラバーの色を「赤と黒」に決めたことで「第四の危機」を脱出しラリー回復。一方では無敵を誇った選手が1回戦敗退…。

「赤と黒」に限定して効果多大

――ラバーの色が自由であったものを、「赤と黒」に限定したことで“卓球の危機”を乗り越えたって、どういうこと?

……19の回で、1970年代から「わけのわからない変化プレー」が続出したために、ラリーがつづかず「面白くない試合」がふえたこと。そしてこれは、「卓球第四の危機」とも言うべきものであることを述べた。83年の東京大会を観戦したモンタギュ初代国際卓球連盟会長が「もっとラリーが続くようにしなければ卓球は発展しないと思う」という言葉を残して翌年80歳で生涯をとじている。

――国際卓連は、「第四の危機」にどのように対処したの?

……83年と85年の2段階にわたって、答えを出している。それは、次のとおり。

①83年大会の総会で「ラケットの両面は、はっきり違う色でなければならない」

「試合開始に先立って、対戦相手と審判員にラケットを見せること」と決定した。

――それまで、ラケットのA面とB面に性能の異なるラバー(異質ラバー)を貼っている選手のほとんどが、両面同色、それも相手が最もわかりにくい両面に黒いラバーを貼っていた。これだと、サービスやラリー中にA面とB面をひっくり返して(反転して)打球しても、相手にはなかなか、わからない。わからないからよく効き、サービスやツッツキ、カットなどの変化球がすごく効き、ラリーが続かなかった。それが、「A面とB面とでは、はっきり色のちがうラバーを貼りなさい。そして、A面はどういうラバーでB面はどういうラバーかを対戦相手にも試合前に見せなさい」と決めたわけだね。これによって、いまA面で打ったか、B面で打ったかが、対戦相手にわかるようになった。

第2段階の決定とは?

……②もう一歩ふみこんで、85年の総会では「ラバーの色を明るい赤と黒に限定する」と決めた。

このルール改正が今も生きており、全日本選手権などの全国大会や世界・五輪などの国際大会に出るすべての選手はラケットの片面に「明るい赤」、もう片面に「黒」のラバーを貼ることになっている。(編注:2019年世界選手権大会中に行われた国際卓連年次総会でラバーの色の自由化(片面が黒、一方が赤を含む別色可)が決定している)

 

無敵の蔡振華が1回戦で負けた!

――このルール改正の効果は?

……異質ラバーを反転使用する選手のサービスや三球目攻撃による得点が大幅にへった。1例をあげる。

83年大会の団体戦で10戦全勝し、外国選手に無敵を誇った蔡振華(中国)が、①のルールが採用された同年のワールドカップで、なんと1回戦で負けた。16名中10位という信じられないような成績にさがった。異質ラバー反転使用の効果が激減したためである。

国際卓連によるルール改正が、大きな効果があったことを示すエピソードである。

 

●こぼれ話

コンビネーションと“おしり”

日本人は言葉を省略して使うのが好きらしい。「異質ラバー貼りラケット」を「異質ラバー」と日常使う。さらに略して「相手は異質だから、やりにくい」とも使う。日本卓球協会を「にったく」と略して使うと日本卓球協会なのか、「ニッタク」なのか分からないことがある。

「バック側」の意味で「バックサイド」とイギリス人に言ったら、それは英語では「おしり」の意味になるので省略せずに「バックハンド・サイド」と言いなさい、と教えてくれた。

「異質ラバー貼りラケット」を英語でコンビネーションラケットと言うが「コンビ」「コンビニ」と略して使ったら、混乱するだろうなぁ。

 


藤井基男(卓球史研究家)

1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。

本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去