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2020.07.07

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【世界選手権おもしろ史05後編】試合が長すぎて決勝戦で両者失格 (2009年5月号から)

  • 16歳9ヶ月の史上最年少で前年世界一となったが、翌37年大会で失格となったアーロンズ

  • アーロンズと決勝を戦ったプリッチ。翌38年には母国がドイツに併合されるなど、波乱の卓球人生

昭和22年創刊、800号を迎えたニッタクニュースのバックナンバーから編集部がピックアップしてお届けするページです。


 

2009年5月号世界選手権横浜大会開催記念号から、故・藤井基男氏・著の「世界選手権おもしろ史」をお届けします!
※ここに紹介の記事は、原文を一部抜粋、編集しています。敬称略

 

QアンドAとエピソードでつづる世界選手権おもしろ史

 

第11回1937(昭和12)年2月1~7日 バーデン(オーストリア)

Q 第11回大会で何が起こった?

A 女子シングルス決勝途中で両者失格に

――翌37年のバーデン大会で、女子シングルス決勝を戦っている両選手が試合途中で失格になるという事件が起きたね。なぜ?

……この大会の前日、国際卓球連盟は緊急会議を開いた。前大会のような「競技時間が長すぎる試合」をなくすには、どうしたらよいかについて。その結果、この大会用の暫定ルールを決めた。団体戦は3ゲームの試合、男女シングルスは5ゲームの試合が行われるが、「3ゲームの試合は、競技開始から1時間、5ゲームの試合は1時間45分たっても試合が終わらなかった場合は、両者とも失格とする」というもの。

――これで長時間試合がなくなると思ったら、そうでなかったわけだね。

……女子シングルス決勝で2連覇を狙うアーロンズ(アメリカ)と地元期待の新進プリッチが対戦。プリッチは徹底的なカットによる守備を得意とする選手である。攻撃は得意でない。アーロンズも守備型だが、攻撃もうまい。しかし、その攻撃はプリッチの壁のような守備を打ち破るほどのレベルではない。

――どういう試合展開だったの?

……第1ゲーム。アーロンズが攻撃を多くまぜ、プリッチが取った。そこでアーロンズは徹底的に粘る戦術に、第2ゲームから変えた。アーロンズが第2ゲームを取る。第3ゲームに入り、19-16とプリッチがリードしたところで試合開始から1時間45分がたった。審判員は競技をやめさせ、暫定ルールに従って「両者失格」と宣告。アメリカ側は抗議した。両者失格なら、前大会優勝者のアーロンズを優勝者にすべきではないか、と。結局、抗議は受け入れられず、大会史上初めての「両者失格」となった。怒ったアーロンズは、まだ16歳の伸びざかりで世界ナンバーワンの実力者であったが、卓球界を去った。

 当時の国際卓球連盟会長モンタギュは、こう振り返る。

「私の在職中(26~67年春)に、私が欠席した世界選手権が二つあり、バーデン大会はその一つだった。両者とも勝利者になれないというのは主催者側の誤りであった。誰かが必ずチャンピオンにならなければならない」

――この苦い体験を生かし、バーデン大会の会期中にひらかれた国際卓球連盟総会はいくつかの重要な決定(ルール改正)を行ったわけだね。

……主なものは、次の三つである。

①ネットの高さを6インチ3/4から6インチとする(これが現在の15.25センチである)。

 約1.9センチ低くすることによって、「守ったほうが断然トク」ということが、なくなった。

②1ゲームの制限時間を20分とする。

③ラケットの動き以外によりサービスに回転を与えることを禁ずる。

 これによって、フリーハンド(ラケットを持たないほうの手)でボールに回転を与えるフィンガーサービスなどが禁止となった。

 以上の決定は、秋に始まる37/38年のシーズンから実施されることになった。これにより国際卓球連盟は、二つの危機(長すぎる試合と両者失格問題)を乗り越えることができた。

 なお、2001(平成13)年の国際卓球連盟総会では、両者とも優勝者とすると決めた。これにより、37年大会の女子シングルス優勝者はアーロンズとプリッチのふたりとなった。

 

 


藤井基男(卓球史研究家)

1956年世界選手権東京大会混合複3位。引退後は、日本卓球協会専務理事を務めるなど、卓球界に大きく貢献。また、卓球ジャーナリストとして、多くの著書を執筆し、世に送り出した。特に卓球史について造詣が深かった。ニッタクニュースにおいて「夜明けのコーヒー」「この人のこの言葉」を連載。

本コーナーは藤井氏から「横浜の世界選手権に向けて、過去の世界選手権をもう一度書き直したい」と本誌編集部に企画の依頼をいただいた。執筆・発行の14日後、2009年4月24日逝去