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2023.05.16

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「強くはなかったですが、本当に好きでした」日本の肖像 長澤幸一郎(2012年3月号から)

ニッタクニュースの人気コーナー「日本の肖像」から編集部がピックアップしてお届けします。

日本の肖像とは、各界でご活躍されている卓球人にご登場いただき、卓球を通じて学んだこと、その経験を生かした成功への道を語っていただくコーナーです。

第15回は2012年3月号より、長澤幸一郎さんです。

※所属・年齢・事実は掲載当時のまま

 

文■片野賢二

写真■安部俊太郎

 

株式会社エフエム東京 常勤監査役

長澤 幸一郎 

 

絆が深い日比谷高校

25歳までは、高校の合宿で15、16歳の現役少年と同じメニューを完璧にこなしていた。しかし、翌年の合宿の帰路、駅のホームで電車を待っていたら、立ち上がれなかった。これが疲労なのかと感じた。

日比谷高校卓球部は縦のつながりが強く、(以前は)合宿にはOBが多数参加していた。また、OB会(蘭球会)は毎年開催されている。4年前には、40周年を記念し、母校で開催、100名以上が参加した。

生まれは兵庫県。父が国鉄の転勤族で、九州、山口、広島、東京と各地を異動している。中野九中の2年のとき、元卓球選手だった母親から教わって卓球を始める。

「母は私よりずっと運動神経がよく、選手の時は新聞に名前が載るくらいの実力がありました」

父の転勤で中3の夏休みに四国・高松市に転校。行ってみたら、3年生は受験勉強のため部活動禁止、やむなく町の卓球場で練習。

「場所は狭く、床は土でしたが、一生けん命練習をしました」

高松高校に進学後も卓球場で練習をしている。高2のとき、父が東京に転勤。日比谷高校に編入、卓球部に入部した。

「転勤族のために編入試験というものがあり、落ちたら困りますから、4つ受けました」

2年生の後半になると、全員が部活をやめ、受験に備える習慣に逆らい、大学入試前日まで卓球を続ける。「強くはなかったですが、本当に好きでした。また、大学は受かればビリでもいいと思っていました」

思惑ははずれ、浪人することに。(でも、懲りずに)「高校の練習や合宿に参加し、ついでに高体連の試合に出たりしていました。ほんとうはいけないのですが…」と笑顔で振り返り、それだけ卓球が好きだったんだと思います、と語る。

翌年、東京大学に入学、卓球部に入る。駒場ではキャプテンをしていたが、学業との両立は難しく、2年の途中でレギュラーを降りた。しかし、「好きなときに卓球をしていいよと言われていたので、4年の時公務員試験に受かって卓球部に戻り、国公立大会に出ました」

 

郵政大会で交流

卒業後は、郵政省に勤務。人事、郵便、電気通信、放送などを歴任。父と同様に転勤族となり、北海道、東北、北陸、本省との間を3往復。

その間に、全国郵政大会には、本省だけでなく、東北や北陸チームの一員としても出場し、交流を深めている。

「20代の時、北海道の倶知安町の郵便局長になり、後志支庁の48郵便局の交渉代表局長をしていて、当時は労働組合とは鋭く対立していました。一方、組合の書記長は卓球をする人で、公私を区別して付き合える人だったので、週2回一緒に練習をしていました。そして俱知安町の大会で、労組メンバーと呉越同舟(?)で試合に臨み、団体とシングルスに優勝した思い出があります」

昨年6月から株式会社エフエム東京の常勤監査役に就任した。

「卓球は、愛ちゃんや水谷君、佳純ちゃんの活躍のお陰で、若い人も高齢者も増えましたね」

また、蘭球会の最年長として、会をリード、毎週土曜日、東京・港区スポーツセンターの練習に顔を出している。蘭球会オリジナルのゼッケンを作って、仲間と対外試合に挑戦、次はユニホームの製作だと言う。

これも卓球の楽しみ方の一つですね、と笑顔で話してくれた。