TOPICS

ALL TOPICS

2023.02.22

#INFO

【インタビュー】本気でパリパラリンピックへ。目標だけでは終わらない。~七野一輝~

  • 競技用車椅子。調整できるように工夫されている

  • 足の位置を調整できる工夫

  • 着座部分・クッションの下にも工夫がある

生まれつきの二分脊椎による両下肢機能障害。脊髄に脂肪腫が絡まってしまうことにより、足の神経がうまく発達しない。膝から下の感覚がなく、太ももの筋肉が弱いという状態だ。クラッチ(杖)を使わずに、歩いていた時期もあったが、成長とともに上半身は発達するが、下半身は発達しないという状態になっていった。

 車椅子クラス5で全日本選手権初優勝。立位クラスからの転身直後、デビュー戦での優勝であった。

 「車椅子になって勝てなくなった、立位の時のほうが強かったんじゃないか、と思われたくない。立位引退して後悔をしない、車椅子に変えてよかったなと思えるように強くなりたい」

 来年のパリパラリンピックを目指す。3月から始まる国際大会への準備も着々と進んでいる…。

 

――卓球をはじめたのはいつ頃ですか。

七野 中学1年生の時に卓球部に入部したことをきっかけに始めました。私立和光中学校(東京都町田市)という、障がい者の受け入れ体制のある学校に入学しました。旅行先や児童館にも卓球台があり、当時から卓球は身近なスポーツだと感じていました。当時顧問だった井上先生が、障がい者の共同教育を推進している方ということもあり、部員の方々の雰囲気も良く、障がいがあることを気にせずに入部できました。

 

――卓球はどうでしたか。

七野 純粋に楽しかったですね。始めた当時は試合に出て勝つということよりも、ただ楽しむことしか考えていなかったので、プレースタイルもルールでは違反ですが、安定感重視で左手を台についてプレーをしていました。また試合に出ると、障がいがあることで色々な目で見られるのではと思い込んでいたこともあり、試合に出ることを躊躇っていました。しかし上達していく中で、井上先生から1回でいいから試合に出てみなよ、と後押しをしていただき、1回だけなら出てみようと思い、町田市の中体連の大会に参加しました。すると会場では「凄いね」と声をかけてくださったり、温かい目で応援してくださる方もいました。またそれと同時に試合に負けた事が悔しくて更に卓球にのめり込んでいきました。中学2年生の時に、健常者のクラブチームであるJクラブ(東京都八王子市)に入会し、そこから試合で勝つことを目指して競技することになりました。

 

――井上先生の存在が大きかったのですね。

七野 はい。きっかけを作ってくださった恩師です。あの時背中を押していただいていなかったら、試合に出ることがなく、今も卓球を続けているかわかりません。今でも大きな決断を迫られた時、何か節目の局面では連絡をしています。あまりお会いできていませんが、先生からのメールは全て大切に残しています。

 

――パラ卓球を始めたきっかけは。

七野 自分が高校2年生の時に父がインターネットでパラ卓球の大会を見つけてきてくれました。自分自身、パラ卓球の事は何もわかっていなかったので、吉田信一選手(ディスタンス)が当時練習されていたクラブにお邪魔して、話を聞かせていただきました。

2015年に初めて全日本パラ卓球選手権大会(当時:国際クラス別パラ卓球選手権大会)に出場したのですが、当時はその大会が日本代表につながる試合ということは知らず、大阪へ旅行に行くような軽い気持ちで大会に臨んでいました。もちろん勝つことはできませんでしたが、翌年同じ大会に参加し、準優勝することができました。大会後、当時のナショナルチームの監督から「大会の結果により国際大会派遣選手に選考されました」と連絡をいただきました。当時高校2年生で国際大会のことは何も考えていなかったので、お話をいただいたときは本当に悩みました。本気で目指している人には失礼な話なのですが、せっかくの機会だし、社会勉強、世界観を広めるためにいいかと思い、高校3年生から国際大会に出場するようになりました。

 代表に入ったのが、ちょうど2016年リオパラリンピックの年でパラリンピック出場を決めている選手や日本トップクラスの選手と同じ合宿や大会に参加させていただき、その姿から刺激を受け、憧れを抱くと同時に自分もパラリンピックを意識するようになりました。

 

――その後の成績は。

七野 国内では2017年に全日本選手権で初優勝し、そこから3連覇することが出来ました。2017年は特に国際大会でも成績が良く、当時の世界ランキング10位の選手にも勝つことから始まり、大会にも出場すれば必ず世界ランキングを決めるポイントを上げて帰ることができていました。その結果から2018年の世界選手権のワイルドカード(推薦枠)もいただき、出場が決まりました。しかし世界選手権が決まってから行われた大会ではプレッシャーのせいか、なかなか勝てなくなり、苦しい時期もありました。さらに東京パラリンピックが近づくにつれて、「負けたらどうしよう」というプレッシャーに襲われていました。パラリンピックを目指し始めた時は、遠い目標だったので、勝ててラッキー、負けて当たり前というような気楽な気持ちでプレーができていました。しかし段々と周りからも全日本選手権で優勝し、世界選手権も出場、これぐらい勝って当たり前だよね、と思われることもあり、それが辛かったですね…。卓球は技術だけでなく、精神面も鍛えないといけないのだとその期間で痛感しました。

 

――世界選手権に出場。どのような雰囲気でしたか。

七野 世界選手権にはワイルドカード(推薦枠)での出場権獲得だったので、ラッキーでしたね。試合では入場の時に行進があり、BGMが流れ、開閉会式のセレモニーがあったりして、これが大舞台なんだという気持ちでした。ただこの世界選手権の決勝を見ているときに自分も絶対にこの舞台に立ちたい、パラリンピックにも出場したい、と明確に思えるようになりました。

 

――車椅子に転向した経緯は。

七野 車椅子へは2024年のパリパラリンピックが終わった後に転向しようと考えていました。クラス6の中でも足の障がいは重度のほうだったので、2024年までは立位でやり切り、転向するつもりでした。もともと股関節が悪かったのですが、4月に肉離れの怪我をした影響で、さらに状態が悪化していまい、立位クラスでの競技続行が難しくなってしまいました。もし肉離れが治って再開したとしても、大きなリスクを抱えながら競技を続けることになる。そう考えたときに立位で続けるのは限界だなと思い、転向を決断しました。

 

――立位クラスのプレー、車椅子クラスのプレーでは、卓球が違うのではないですか。

七野 全く違いますね。特に目線、重心が変わるので最初は立位での自分のプレーを車椅子の型にはめるのが大変でした。車椅子だと目線が低くなって距離感が難しくなる分、土台が安定するためボディワークが大きく使えるので、自分のプレーの中で攻撃と変化を使うバランスの調整が難しかったです。あとはサービスですね。今でこそ問題ないですが、ずっとラケットハンドでのトスだったので最初はフリーハンドでのトスに慣れず…。オープンハンドになっていないと指摘されたこともよくありました(笑)。また立位の時はフォアサーブしか出していないところからバックサービスが中心になったので戦術もかなり変わったと思います。

試合がなかったので、どのプレーが勝てるスタイルなのか、点を取れるパターンなのか、その部分をアジャストさせるのが難しかったです。

車椅子で練習を始めたのが、5月上旬。競技用の車椅子が届いたのが8月。全日本選手権が11月だったので、技術以外にも気持ちの部分や競技用車椅子の調整など合わせるのがギリギリでずっと煙の中を彷徨いながら練習している感覚でした。

 

――大変だったのですね。

七野 最初は何から始めたら良いかわからなかったので、車椅子に転向することをまず吉田選手にご報告させていただき、色々と相談に乗っていただきました。車椅子卓球は身近にあったものの知らないことばかりで1から10まですべて教えていただきました。座った時の足の角度、座面の角度、高さ、タイヤの大きさなど、とても細かいところまで調整しなければならず、今でも調整が続いています。とても親身になって相談に乗っていただき、また吉田選手の所属する車椅子卓球チーム「ディスタンス」にもお声がけいただき、本当に感謝しています。

技術的な事ですと、だれか目標とする選手を探して目指すスタイルを作るというより、立位の時の自分のスタイルから答えを見つけるしかないと考え、指導していただいている山岸護コーチ、安部雅則コーチと3人でグループラインを作り、練習中も動画撮影し、自分のプレーを様々な視点から研究しました。

 

――その中、車椅子で初出場した全日本選手権で見事優勝でしたね。

七野 予選リーグで前回優勝されている土井選手(D2C)と対戦しました。土井選手は普段からよくお世話になっており、練習もしていただいている選手なので、慣れている分とてもやりにくいと思っていましたが、土井選手含め、クラス5の選手の分析はかなり徹底的に行っていたので、自信をもって試合に臨むだけでした。0-2の劣勢でしたが、フルゲームデュースで勝つことができ、それがとても大きな自信になり、その勢いのまま優勝することができました。試合にはいつも応援してくれている家族、会社の上司・先輩、クラブの練習相手の方々も応援に駆けつけてくださり、ホームのような環境で試合ができたこと、そして優勝できたことがとても嬉しかったです。

 

――会社が凄く七野さんの活動に理解があるのですね。

七野 株式会社オカムラにパラアスリート社員として入社し、勤務しています。上司や先輩が、全日本選手権に応援に来てくれましたが、その他にも社内向けにTeamsで応援チャンネルを作成していただいて、多くの方に応援の声をいただいています。また競技とは関係のない業務のメール文の最後に、「p,s, 卓球頑張ってくださいね!」と連絡してくれる方もいました。同じ部署以外の方からも同僚として応援してくれることもとてもありがたいですね。業務ではサステナビリティ推進部D&I推進室という部署でD&I関連の担当をしています。D&Iは年齢、性別、障がい、国籍などの属性に関わらず、それぞれの個を尊重し、認めあい、活かしあうことが定義となっています。業務の方でもパラ卓球の活動と繋がる部分があると思いますし、自分自身が活躍することで、色々な部分を発信できていけたらいいなと思っています。

 

――ありがたいですね。私自身、東京パラリンピックを経験し、パラ卓球に対しての理解が深まりました。それ以前までは、どう接していいかわからなかったのが正直な気持ちです…。

七野 障がい者だからといって特に意識しなくていいと思います。なかなか関わる機会がないとどう接したらいいかわからないのは当然だと思いますし、だからこそ当事者からも周りに自分のことを発信していくことも必要だと思います。会社はオフィス家具事業を行っているので、車椅子を使っている人と働く、ともに働く環境を作るために障がいを知ってもらうことを目的に、実際にオフィスを車椅子で体験するというイベントも企画し、開催しています。

 

――今後の予定は。

七野 まずはパリパラリンピックに向けて世界ランキングを獲得し、そこから上げていく必要があります。パラ卓球は新人として出場する場合、最初に勝った2人の選手のランキングに応じてランキングポイントが付与されます。そのため最初の試合がかなり重要になってきます。3月に初めて国際大会に出ますので、そこからいい結果を残せるように準備しています。また海外の選手はパワーで攻めてくる選手が多いイメージがあるので、真っ向勝負で対抗することももちろんですが、変化表を使ったミスを誘うプレーも練習していきたいと思っています。

 

最後に話し足りない事はありませんか、と質問すると、コーチとNittakuに感謝している、という話をされた。

 山岸コーチは、同じクラブチームの1つ年下の後輩。最初は仲のいい友人の感覚で、練習をする仲から、2017年の全日本選手権に帯同し、初優勝。そこから彼が帯同した国内大会では無敗だそう。なんでも話せる関係で、コーチに加えて現在はトレーナーとしてもサポートしている。安部コーチも普段から対戦相手の分析を行い、立位の頃から車椅子に転向してからも1から一緒にプレースタイルを作り上げてくれたそう。

Nittakuは2018年から用具サポートをスタート。サポート前からNittaku製品を愛用して特に現在使用している『ピンプルスライド』が大のお気に入り。「打って良し、守って良しのラバーで今の私の成績を支えているラバーです」と笑顔で話してくれた。

 

▲多くの人の「サポート」に応えるべく、パリパラリンピックを目指す