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夢に向かった“散歩道” 近藤欽司 (前日本女子代表監督) |
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私はなぜ日本代表監督になったのか-- |
![]() 私はこれまで、10回の世界選手権と2度のオリンピックの監督を務めてきた。 その間、何とかそれなりの成績を収められたのは、まず代表選手たちの頑張りと、その母体チームの協力、それとスタッフの英知、そして声援を送って下さった皆さんのお陰だった。 1989年にドイツのドルトムントで開かれた世界選手権で、野平孝雄総監督のもと、私はコーチとして初めて国際大会のスタッフに入った。 当時、教え子の佐藤利香が前年に日本チャンピオンになり、また内山京子、松本雪乃も活躍していた。 高校の監督をしていた私としては、教え子がインターハイで好成績を収めることもひとつの夢だったが、それ以上に、国際大会で活躍することはもっと大きな夢であった。 卓球選手はみんな夢があるはず。 その実現に一歩一歩近づくように、そんな意味も込めてこの連載のタイトルを「夢に向かった“散歩道”」とした。 当時47歳だった私は、世界の迫力あるプレーを目の当たりにして、それに圧倒され惹き込まれた。 そのときは、これから度々チャンスがあるとは思ってはいなかったが、図らずも1993年のイエテボリ大会で初めて監督の重責を担うことになったのだ。 メダル獲得に向けた秘策を準備 そして2000年までに、イエテボリ(1993年)、天津(1995年)、マンチェスター(1997年)、個人戦のアイントホーヘン(1999年)、団体戦のクアラルンプール(2000年)と、5回の監督を務めてきた。 4回の団体戦は、いずれもベスト8。あと一歩の壁がどうしても破れなかった。 2000年のクアラルンプール大会開催時には、2001年の大阪での世界大会開催が決まっており、 「地元開催でもあり、何とかしてメダルを獲って、卓球人気を復活したい」と、強く心に誓っていた。 そのクアラルンプール大会への出発1週間前、小山ちれ選手が、体調不良により急に出場を辞退。 その対応に苦慮したが、まるで偶然にも事態の2日前に、中国からの帰化選手の羽佳純子選手と会い、話をしていた... |
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続きは「ニッタクニュース1月号」に掲載しています。
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